カナレットの人生とアートの物語:18世紀のヴェネツィアとロンドンを描く

18世紀のヴェネツィアの風景を、まるでその場にいるかのように鮮明に描いたアーティストがいます。その名はジョヴァンニ・アントニオ・カナル、通称カナレットです。カナレットは、ヴェネツィアの光と影、建築物の美しさ、そしてその独特の雰囲気をキャンバスに再現することで、多くの人を魅了してきました。

カナレットの作品は、ただの風景画ではありません。彼の絵を見ると、まるでタイムマシンに乗って18世紀のヴェネツィアを旅しているかのような気分になります。建物がとてもリアルでそこに人々の賑わいが溢れている、そしてどこまでの広がる広場や運河の様子で、当時の街の姿を生き生きと伝えてくれるのです。

では、なぜカナレットがこんなにも重要なアーティストなの?

それは、彼の作品が美術品を超えて、歴史的な記録としても価値を持っているからです。絵を通して、18世紀のヴェネツィアの生活や風景を垣間見ることできるということ。

この記事では、カナレットの生涯を通じて芸術の発展や代表作、そしてどのようにしてヴェネツィアの美を捉えたかを紹介していきます。彼の作品の世界に一緒に飛び込んでみましょう。

これまでカナレットが好きで、イギリスのカントリーハウスや美術館で絵をたくさん見てきました。そして2度行ったヴェネツィアではあの街の独特の空気感を感じてきた私だからこそ伝えられることもお届けしたいと思っています!

カナレット年表

左:カナレット (ジョヴァンニ・アントニオ・カナル)
右:アントニオ・マリア・ヴィセンティーニ
1735年出版の「プロスペクティス・マグニ・カナリス・ヴェネティアルム」(ヴェネツィア大運河の眺望)の扉ページ。この本は、カナレットの作品を版画として広めたヴィセンティーニに制作されました。

カナレット

1697年     ヴェネツィアに生まれる(10月28日)。父ベルナルド・カナル(劇場背景画家)

1720年ごろ   父とローマへ

1720年代初め  のちのヴェネツィア、イギリス領事ジョセフ・スミスから自宅用の景観図6枚の注文を受ける。

1722年     英国人オウエン・マックスウィニーから制作を依頼される。

1730年ごろ   「キリスト昇天祭の日のプチントーロの帰還」を描く

1735年     「プロスペクティス・マグニ・カナリス・ヴェネティアルム」(ヴェネツィア大運河の眺望)を出版

●1740年     オーストリア継承戦争勃発(8年間に渡りヨーロッパの旅行が制限される)

1741年     このころ甥のベロットとパドヴァへ旅行。

1742年     「プロスペクティス・マグニ・カナリス・ヴェネティアルム」(ヴェネツィア大運河の眺望)第2版を出版

1744年     自分で彫版したエッチング集を出版。3月父が亡くなる。フランスがイギリスに宣戦布告。

●1746年     注文が途絶えたため工房を閉じて、スミス領事の紹介状を手にイギリスへ渡る

1750年     ヴェネツィアに戻る

1751年     ザッテレに家を購入する。再びイギリスへ渡る

1756年     ヴェネツィアに戻る

1762年     財政破綻したスミスはコレクションの大半をジョージ3世に売却

1763年     ヴェネツィア絵画彫刻アカデミー会員に選出される

1768年     膀胱炎で死亡(4月19日、享年70歳)

初期の人生

ジョヴァンニ・アントニオ・カナル、通称カナレットは1697年10月28日にヴェネツィアで生まれました。ヴェネツィアといえば、美しい運河と壮麗な建築物が広がる水の都。その風景が、後にカナレットの作品に大きな影響を与えることになります。

カナレットの芸術への興味は、父親のベルナルド・カナルから始まりました。ベルナルドは舞台デザイナーであり、劇場の背景画を描く仕事をしていました。少年時代からカナレットは、父親の仕事場で劇場の舞台背景が作られる様子を目の当たりにし、その華やかで想像力をかきたてる世界に魅了されました。

当時の舞台装置は手の込んだとても幻想的なものでした。

通称のカナレットというのは”小さなカナル”という意味。一緒に仕事を始めるとカナル親子の呼び名を区別するためにそう呼ばれていたと言われています。

父親の影響を受けて、カナレットは幼少期から絵を描くことに興味を持ちました。舞台デザインの仕事を手伝う中で、光と影の使い方、遠近法の技術、そして空間の捉え方を学んでいきました。これらの技術は後に彼の風景画において非常に重要な要素となります。

親子で、ヴェネツィアではヴィヴァルディのオペラの背景画を制作、1720年ごろにはローマへ向かいアレッサンドロ・スカルラッティのオペラの舞台装置をデザインしています。

ローマでは、ジョヴァンニ・パオロ・パンニーニが描くヴェドゥータ(都市景観図)がとても人気で、カナレットはそこで技術を習得しました。

父から遠近法を使った舞台背景を、ローマでは流行のヴェドゥータを学びヴェネツィアに戻ります。

画像はカステッロ地区5485番地のカナレットの家の窓からの光景。ここで育ちアトリエは最上階にあったと考えられています。

画家としてのキャリアの始まり

ローマからヴェネツィアに戻った後、カナレットは本格的にヴェドゥータ(都市景観画)のスタイルを確立し、発展させることを始めました。

当時ヴェネツィアではルカ・カルレヴァリス(1663年ー1730年)という景観画家の有名人が活躍していました。絵の背景に手の込んだ正確な建造物を描いていたのです。カナレットは大きな影響を受けてました。

1725年、画家アレッサンドロ・マルケジーニは、ルッカの美術収集家のバイヤーとして、カナレットの作品に注目、そして大きな風景画を2枚描くように交渉を始めました。マルケジーニは、カナレットの絵を「カルレヴァリスのようだが、そこには太陽が輝いているのが見える」と語ったと言われています。腕を磨きどんどんと巨匠と肩を並べる存在となっていきます。

おもにサンマルコ広場周辺を中心に描いていたカルレヴァリスとの大きな違いは描く場所にも。カナレットはヴェネツィアの街の名所だけでなく、裏町のみすぼらしい家や人の姿をとらえていました。そこには生粋のヴェネツィア人としての愛着が感じられます。

こちらの絵「石工の仕事場」は初期の傑作と知られています。描かれているのは大理石加工場とその背後にはサンタ・マリア・デッラ・カリタ聖堂とその鐘楼。崩れた建物、剥げて落ちた漆喰、落書き、洗濯物、天気が変わりそうな怪しい空模様、男たちが大理石を刻み、近くでは掃除をしている母と転んでしまった子供など、庶民の労働や日常生活。飾らないヴェネツィアの風景もちゃんと描いているのです。

こうやってカナレットの評判は上がっていく中で、バイヤーのマルケジーニが注文した4枚の絵には当時としては大変な額の90ゼッキーノを受け取りました。

さらに、カナレットに新たなパトロンが。

劇場の経営からイギリス貴族の代理人として活動していたオーウェン・マクスウィニー(イギリス人)が、カナレットをイギリスの顧客であるリッチモンド公爵に初めて紹介しました。さらに、有名なイギリス人の墓を寓意画シリーズにしたり、

観光客や外国人訪問者に向けて魅力のある小さなヴェネツィアの風景画を描くようカナレットを導いていくのです!

1枚目の絵
「ヴェネツィア、サンマルコ広場」1723年〜24年

2枚目の絵
「石工の仕事場」1725年ごろ

スミスとの出会い

有名な画家のそばにパトロンの存在は欠かせません。例えば宮廷画家としての地位だったり、有力な顧客がついていたり・・・

カナレットには美術収集家でビジネスマン、そしてヴェネツィアの領事にもなるイギリス人でヴェネツィアに住むジョセフ・スミスがいました。1720年代、若き日のカナレットとスミスの出会いは、2人の人生における重要な転機となったのです。スミスが屋敷を飾るための景観図を最初に依頼した時から、才能を見出しその後20年にわたり代理人と画家として関わり合います。

当時、イギリスからグランド・ツアー(貴族などの息子が教養旅行としての大旅行)の一環としてヴェネツィアを訪れる人がたくさんいました。彼らはこの美しい水の都の記憶を持ち帰りたいと望んでいました。カナレットの絵はその願いを叶える完璧な手段!!

スミスの自宅を訪れた人は飾られたカナレットの絵を当然見ます。そうやってイギリス貴族からの注文を確保し、作品をイギリスへ送るための額装、荷造り、輸送を効率よく手配したのです。結果多くのイギリスの邸宅にも飾られて、ヴェネツィアの永遠の魅力を伝えることになったのです。

まずスミスは6枚の景観画を注文し、その後12枚の大運河のシリーズを依頼。その12枚のシリーズはのちエッチング集として出版されて、(Prospectus Magni Canalis Venetiarum)、イギリスでのカナレットに対する熱狂が高まりました。1730年から1742年の間はカナレットのキャリアで最も生産的な時期であり、この時期に彼が最もよく知られているヴェネツィアの絵画のほとんどが完成し、彼の最高の作品の多くが制作されました。

1744年には自分で彫板したエッチング集を出版して、タイトルページにはスミスへの尊敬と敬意が示されています。

スミスは最終的にカナレットから約50枚の絵画、150枚の素描、15枚の稀少なエッチングを取得していました。1760年代になり財政難に陥り、コレクションの多くをイギリスのジョージ3世に売却しました。これらの絵は今でもバッキンガム宮殿に飾られたり、王室コレクションとして保存されています。

1枚目
「サンタ・マリア・デラ・サルーテ聖堂からサンタ・マリア・デラ・カリタ聖堂に向かって見た大聖堂」1730年ごろ
スミスが注文した大運河12景の中の1枚

2枚目
『古典遺跡の大壁と献辞を指し示す人物』 - 『Views』のタイトルページ

碑文:"VEDUTE / Altre prese da i Luoghi altre ideate / DA / ANTONIO CANAL / e da esso intagliate poste in prospetiva / umiliate / All' Ill.mo Signor / GIUSEPPE SMITH / Console di S.M. Britanica appresso la Ser.ma / Repubblica di Venezia. / In segno do stima ed ossequio"

日本語訳:"風景画 / 一部は現地で描かれ、一部は想像で描かれた / アントニオ・カナルによって / 版画として制作され、遠近法で配置された / 献呈 / 高名なる / ジュゼッペ・スミス氏へ / ヴェネツィア共和国に駐在する英国王室の領事。 / 敬意と尊敬の印として"

オーストリア継承戦争勃発

1740年12月オーストリア継承戦争が勃発しました。この戦争は、神聖ローマ皇帝カール6世の死後に娘マリア・テレジアが皇位を継承したことに反発する諸国が争ったもので、ヨーロッパ各国が複雑に絡み合った大規模な戦争です。戦争は8年間続き、ヨーロッパの勢力バランスに大きな影響を与えました。

そのためヴェネツィアへの外国人訪問者の流れが大幅に途絶え、イギリスからのカナレットの作品に対する需要が減少していきます。

カナレット自身も自分の作品に新しい題材などが必要だと感じていました。人気になり作品が商品化されていくことでありきたりで機械的になってきたからです。

そこで工房で一緒に制作をしている画家で甥のベルナルド・ベロットとパドヴァまで旅に出ることに。道すがら周囲の風景やヴェネツィア人の建てたヴィラをスケッチします。この時のスケッチはヴェネツィアに戻った後油絵に仕上げられていきました。

スケッチはさらにカプリッチオ(空想的建築画)の下絵にもなります。カプリッチオは実際にある場所や建物をもとに、配置や組み合わせで空想的な変更が加えられて描かれる絵。例えば画面の左側は正確に描かれているけれど、右側の創作だったりとその意外な組み合わせになる。カナレットはヴェドゥータだけでなく、このカプリッチオでも才能を発揮していきます。

画像はそのカプリッチオの代表例。青銅製の馬はカナレットの時代にはサンマルコ大聖堂の正面中央の窓の前にありました。でもカナレットはピアツェッタ(サン・マルコ広場の隣に位置する小さな広場)に移して、さらに想像力を生かして描かれた素敵な台座の上に乗せているのです。画面の右側の部分も創作が加えられていて、見慣れた場所が新たな魅力を加えられて、観る人を別世界へと誘います。

さらに、ジョゼフ・スミスはカナレットにより多くの時間を素描に費やし、エッチングを始めるようアドバイスします。1744年にスミスがヴェネツィアの英国総領事に任命された後、カナレットのエッチング集『Vedute altre prese da i luoghi altre ideate』が出版されました。このエッチング集も、パドヴァでのスケッチが生かされています。

「ピアツェッタのサンマルコの馬」1743年ごろ

イギリスへ

1744年3月父が卒中で亡くなります。また同じ頃フランスがイギリスに戦線布告したことで、ヴェネツィアの経済衰退と、自分の注文も途絶えてしまい、工房を閉じて新たな仕事を求めてロンドンへ行くことを決めました。

1746年にカナレットはスミスの紹介状を手にヴェネツィアを出発し、次の10年間途中何度かヴェネツィアに戻りながら、イギリスで活動しました。

ヴェネツィアは芸術家にとっても厳しい状況が続いていましたが、イギリスは産業革命による経済的繁栄の時期で、多くの貴族や裕福な市民が芸術品を収集していました。カナレットの作品がイギリスの貴族や旅行者たちに愛された理由は、その精密な描写、リアリズムと美しい構図。イギリス人旅行者にとっての思い出となり、自宅にその美しさを持ち帰りたいという願望を満たしました。

カナレットは、スミスを通じて多くのイギリスの貴族と知り合い、彼らからも絵画の依頼を受けました。例えば、上の絵は若き裕福な貴族フランシス・グレヴィル(後のワーウィック伯爵)からの依頼を受けて、祖先の家の大規模な改修を記録するために5枚の絵画を制作しました。この改修は、ランドスケープアーキテクト、ランスロット「ケイパビリティ」ブラウンにより手がけられました。カナレットは、工事中の様子と、前景には上品な市民が新しい散歩道を楽しんでいる姿を描いています。工事の初期段階で、崩れかけた外壁に対して鮮やかで白い新しく仕上げられた「ゴシック」窓が際立っています。

上記の絵は、第2代リッチモンド公爵から依頼された、公爵のロンドンの邸宅からテムズ川を眺めた光景。遠くにはセントポール寺院のドームが見えています。水辺に愛着を持つカナレットが描くとテムズ川はヴェネツィアの大運河のようです。

また、カナレットはロンドンの風景だけでなく、イギリスの田園風景も描き、自然の美しさや農村の風景が見事に捉えています。

しかし初めは成功したものの、人気は長続きしませんでした。イギリス人は1720年代後半から30年代の作品を懐かしがり、今の作品は型にはまっていて初期の自然なのびやかさがないと失望します。そして遠慮がちで内気なカナレットの性格を誤解して、本物のカナレットではないという噂まで広がります。

1750年、ヴェネツィアへ戻りイギリスで貯めた財産でヴェネツィアのザッテレにささやかな家を購入。しかしここでも制作依頼がほとんどなく、再びロンドンへ渡ります。

1756年に再びイタリアへ戻るまで、制作依頼をこなしたり、彫板師への下絵を描き高収入を受け取ります。

1枚目
「ウォリック城」1748-9年

2枚目:
「ロンドン、リッチモンド・ハウスから眺めたテムズ川とシティ」1747年

晩年

カナレットは同時代のヴェネツィア人からはあまり評価されていなかったようです。ヴェネツィア美術アカデミーへの加入も一度拒否されて、最終的に選ばれたのは晩年の1763年でした。

一般的には、1756年以降のカナレットの作品は、初期の作品に見られる独創性や技術的なスキル、新鮮さが欠けていると考えられています。でも、晩年にも質の高い作品を制作しています。

上記は、1765年にアカデミーに贈呈した「宮殿の中庭の内部を描いた建築的カプリッチョ」です。1767年8月にはアカデミーの会議に出席しています。しかしあまりヴェネツィア人にはあまり意味を持つことなく真の才能を評価することもありませんでした。

こちらも後期の作品。サンマルコ広場のアーケードの長い奥行きを使って劇的な効果を狙っています。

この広場の角の位置はカナレットがスケッチをするお気に入りの場所で、1760年にジョン・クルー(後の初代クルー卿)と、友人のジョン・ヒンチクリフ博士が写生しているカナレットに声をかけたという逸話が伝えられています。この時カナレットは気づいてもらえたことを喜んでおり、悲しいことに人前で描いて絵に関心を持ってもらわなければならないようになっていたのだとか。

2人は1762年にもヴェネツィアに来ており、クルーは、カナレットから絵を購入し、工房にも訪問しているようです。

1768年4月19日にカナレットは膀胱炎で亡くなります。残された遺産は、ザッカレの家、アトリエにある何枚かの絵、わずかな家財だけだった。

華やかな活躍と反対に晩年の状況は苦しかったようです。

1枚目
「宮殿の中庭の内部を描いた建築的カプリッチョ」1765年

2枚目
「サンマルコ広場」1756年ごろ

技法とスタイル

カナレット最盛期の1730年ごろに描かれた「キリスト昇天祭の日のプチントーロの帰還」。

キリスト昇天祭りの日に行われる、ヴェネツィアとアドリア海の”結婚”を祝うというヴェネツィアの重要な祝典が描かれています。儀式はプチントーロという御座船に乗った総督が、リドの入り江口まで行って、そこに金の指輪を投げ込むというものです。カナレットの絵はその儀式が終わり戻ってきている場面です。

カナレットの作品の大きな特徴の一つは水面の揺れ動く光の煌めき。白い斑点を描きこむことで、水面に反射した光と風にゆらめくさざなみを表現しています。この明るい光と煌めきは、イタリアと比べて天気が良くないイギリス人にとって魅力的に映ったはずです。

そして巧みな遠近法の使い方は、絵画に奥行き感を与えました。建物の配置や道の遠近感が絶妙に描かれており、観る人の視線を自然に絵の中に引き込む効果があります。

驚くほどの詳細な描写も絵画を一見の価値あるものにしています。彼の作品を通じて、18世紀のヴェネツィアの美しさと活気を体験できるからです。

カナレットは、カメラオブスキュラ(暗箱)が使われたと考えられています。カメラオブスキュラは、暗い箱の中に小さな穴を開け、その穴を通して外の風景を箱の内側に逆さまに投影する装置です。投影された画像をトレースすることで、アーティストは正確な遠近法や細部を描くことができました。これにより、カナレットは非常に精密でリアルな描写を実現しました。

カナレットの名前があるカメラオブスキュラも残っています。しかし基本的な構図のためには使われたかもしれませんが、実際の絵はもっと広い視野でさらに複雑な構図なのが多く、そこまで役に立たなかったのではとも考えられています。

「キリスト昇天祭の日のプチントーロの帰還」1730年ごろ

まとめ

1934年にカナレットの絵は、ロンドン、ナショナル・ギャラリーのポスターに使われています。

カナレットの生涯と彼の作品は、18世紀のヴェネツィアを中心としたヨーロッパの芸術に多大な影響を与えました。当時の都市景観を驚くほど精密に描き出し、その技法とスタイルは後世の多くのアーティストたちに影響を与えました。カナレットの作品は、単なる風景画を超えて、歴史的な記録としての価値も持っていますし、景観画の地位をあげた画家でもあります。

カナレットの作品を通じて、18世紀のヴェネツィアを旅して魅力を堪能してください。彼の絵画は、単なる過去の風景画ではなく、今もなお新鮮な感動をもたらす芸術作品です。

(参考)
「週刊グレート・アーティスト The Great Artists カナレット 72」
「グランドツアー 18世紀イタリアへの旅」岡田温司著

https://www.christies.com/en/lot/lot-1428951


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