私はロンドンに留まることにした――ある肖像画の告白

私は、イングランド王ヘンリー8世がその手中に収めることのできなかった女を描いた絵だ。 彼女は、絶対権力者の求婚を驚くほど静かに、しかし鮮やかに退けてみせた。

1538年3月12日、午前10時。私はブリュッセルの一角で、描き出され始めた。

目の前には、ロンドンから駆けつけた宮廷画家ハンス・ホルバイン。彼の手元には、あらかじめ彼女の肌の色に似せて薄紅に染められた数枚の紙が用意されていた。 彼に許された時間はわずか3時間。

依頼主は、海の向こうのイングランド王、ヘンリー8世。3番目の王妃ジェイン・シーモアを亡くし、次なる「獲物」を探していた王のために、私のモデル――16歳の未亡人クリスティーナの容姿を正確に、そして魅力的に写し取ることが彼の任務だった。

クリスティーナは、デンマーク王の次女にして、ミラノ公の未亡人。叔父はあの神聖ローマ帝国カール5世という名門の女性。彼女には多くの国からお妃として熱い視線が注がれていたのだ。

彼女が纏っていたのは、華やかな宮廷の衣装ではない、夫を亡くしたばかりの彼女が身に付ける、公妃としての喪服だった。

ホルバインはその黒の中に、無限の宇宙を見出したようだった。光を弾くサテンの鋭い輝き、冷気を遮る柔らかなセーブルの毛皮、そして帽子に施されたベルベットの縁取り。彼はそれら異なる「黒」の質感を、まるで指先で触れているかのように描き分けていった。

彼女が話すとき、少しだけ舌足らずになる魅力的な唇には、淡い赤チョークが引かれた。手袋を外し、静かに重ねられた両手。 白い袖口に施された、目を凝らさなければ見えないほど細い黒糸の刺繍。それが、彼女の長く美しい指先をいっそう際立たせていた。

画家の筆先を通して、私は彼女の鼓動を感じていた。 彼女は知っていたのだ。この3時間の「品定め」の後に、自分の運命が海の向こうの荒ぶる王に委ねられることを。

彼女は驚くほど聡明だった。自分が単なる「お妃候補」という駒に過ぎないことを知っていた。ヘンリーがこれまでに王妃たちをどう扱ってきたか、その残酷な噂はすでにヨーロッパ中に広まっていたから。

「私に頭が二つあれば、喜んで一つをイングランド王に差し出すのですが」

そんな命がけの皮肉を微笑みに隠しながら、ホルバインの鋭い視線を受け止めた彼女。完成した私を見たヘンリーは、その美しさに上機嫌だったという。けれど、彼女が王の手に渡ることはなかった。

王は彼女に拒絶されたが、私だけは手元に置いた。彼が亡くなるその瞬間まで、私は王のコレクションとして、その情熱と執着を見つめ続けてきたのだ。

それから、370年という気の遠くなるような月日が流れた。 私はアランデル伯爵やノーフォーク公爵といった、イギリスの誇り高い貴族たちの館で、重厚なオークの壁に掛けられ、何世代にもわたる家族の歴史を見守ってきた。1880年からはナショナル・ギャラリーに貸し出され、28年もの間、ロンドンの人々との穏やかな時間を楽しんでいた。

しかし、1909年の春。私を包む空気がにわかに殺気立ち始めた。 きっかけは、持ち主であるノーフォーク公からの申し出だった。 「この絵を、ナショナル・ギャラリーに買い取ってほしい」 彼は私を愛していた。自分の慈善活動のために資金は必要だったが、私をこの国から手放したくないという、彼なりの誠実な願いがそこにはあった。

けれど、交渉は暗礁に乗り上げた。提示された金額は、当時のギャラリーにとってはあまりに巨額だったのだ。 議論が空転し、タイムリミットだけが過ぎていく。その隙間に、海の向こうから押し寄せる「新しい時代の富」が忍び寄った。

ニューヨークの鉄鋼王、ヘンリー・クレイ・フリック。 彼はすでに私の生みの親であるホルバインの傑作を二つも手中に収め、自らのコレクションに「クリスティーナ」という最後のピースを加えることを熱望していた。提示された金額は、天文学的な7万2000ポンド。

「外国の画家の絵を、これほどの公金を使ってまで救う必要があるのか」 「イギリスの貴族の肖像画なら、他にもたくさんあるじゃないか」 新聞紙面で冷ややかな議論が戦わされるたびに、私は絶望に震えた。箱に詰められ、暗い船底で大西洋を渡り、二度とこの島国の光を見ることはないのだと、私は覚悟を決めていた。

タイムリミットまで、あと11時間。 ニューヨークへの旅路が確定しかけたその時、ナショナル・ギャラリーの館長室に使いが走った。 差し出されたのは、一通の小切手。「英国人女性より」とだけ記された、4万ポンドの寄付金だった。

その小切手が、私の運命を鮮やかに、そして永遠に書き換えた。

彼女が誰であったのか、今も公式な記録には残っていない。けれど、当時、女性の参政権を求めて戦っていた志ある女性たちが、私の「意志ある拒絶」の表情に自らを重ね、熱心に救済を訴えていたことを私は知っている。

私は今もロンドンの光の中に在る。私をこの国に留めてくれた女性たちの想いとともに、 この場所で、会いに来る人々を静かに見つめ続けている。

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2023年秋、私はナショナル・ギャラリーでこの絵の前に長く立ち止まった。

一見地味で良さが伝わりにくいこの肖像画。

でもじっと目を凝らすうちに画面から温度が伝わってくるようで・・・

彼女の手の美しさ、フリルのふちどりの繊細さ、黒の素材の見事な描き分け。

まるでクリスティーナ本人がここに立っているようで目が離せなくなった。

そしてヘンリーに聞いてみたくなるんです。彼女のどこに惹かれたのか。

こうして私はクリスティーナの話にたどりついた

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