【肖像画が物語る】アンドレアス・メラーが描く11歳のマリア・テレジア

この堂々としながらも、可愛らしさも残している人物、誰だと思いますか?

オーストリア=ハプルブルグ家の女性君主、そしてフランス王妃マリー・アントワネットの母のマリア・テレジア(1717年〜1780年)です。詳細の称号は、神聖ローマ帝国皇帝の皇后、オーストリア大公、ハンガリー女王、ボヘミア女王。
肖像画は彼女が11歳の時のものだということです。大きな瞳でこちらをじっと見つめてくる姿に、こちらも見返さずには入られませんよね。

描いたのは、画家アンドレアス・メラー。単に外見を描くのではなく、マリア・テレジア将来を予感させ、その時代の枠を超えたリーダーシップと強さを暗示しているよう。

ここでは、マリア・テレジアのプライベートと、外交力が感じられる外の力を伝えてくれる2つのエピソードをご紹介します。

Andreas MøllerPortrait of Archduchess Maria Theresia
少女時代のマリア・テレジアの肖像画」
アンドレアス・メラー (1684年ー1762年)
Andreas Moller
1727年
オーストリア国立美術史美術館

子供とともに生きる女帝

マリアには、肖像画の美しさのとおり、結婚適齢期になるとさまざまな縁談が出てきました。その中にはプロイセン王子のフリードリヒとの話もあり、フリードリヒは前向きに考えていたのですが、彼女には別に気になる人がいました。実は6歳の時にウィーンの宮廷でみた9歳年上のロートリンゲン公フランツでした。1736年、マリア・テレジアとフランツは結婚し仲の良い夫婦として有名でした。

4年後父でローマ皇帝カール6世死後、父親の定めたプラグマティッシェ=ザンクティオン(ハプスブルク家の家督継承法)によって、23歳の若さで即位してハプルブルグ家の家督を相続します。オーストリア大公、ボヘミア女王、ハンガリー女王の地位につきます。女性は神聖ローマ皇帝にはなれなかったので、この後のエピソードに書きますが、夫フランツが皇帝に即位します。

その時にはすでにフランツとの間に3人の娘がいて、お腹にはもう1人子供がいたと言うから驚き。その後も20年間に16人の子供を産んだのです。仕事も超多忙なはずなのに、子供をたくさん産み育て、女王としても母親としてもずば抜けていたようです。

夫婦にとって子供のたちの存在はとても大きかったようです。子供のお芝居や舞踏会などが行われる行事には、正装した子供たちが登場しました。たくさんの子供たちが王宮の中で、1つの芸事に熱中したり無邪気に遊んだりすることは、他の王室では滅多に見られないことだったそうです。シェーンブルン宮殿の中で、マリアの子供たちはのびのびと育てられていたようです。
シェーンブルン宮殿の鏡の間という大広間で、幼いモーツァルトが彼女の前でピアノを演奏したことはとても有名です。

行動力と美貌で外交危機を乗り越えた

1740年マリア=テレジアは、ハプスブルク家家督を相続し、オーストリア大公妃などに即位しました。プロイセン王国の国王フリードリヒ2世は、その相続の条件としてシュレジェンという地域の割譲を要求。そしてバイエルン公カール=アルブレヒトは神聖ローマ皇帝位を望みました。さらにフランスのブルボン朝ルイ15世も同調してオーストリアに対し開戦しました。これはオーストリア継承戦争と呼ばれています。

若いマリア・テレジアにとっては、即位と同時に難題がふりかかったのです。しかも女性ということで周りからは相手にされなかったり、軽く見られたりと非常に苦しみます。

どうやってその危機を乗り越えたのでしょうか。

彼女はハンガリーに出向き、ハンガリー貴族たちと5ヶ月に渡る交渉を重ねました。その時純白の衣装を着て、父の喪に服して黒のヴェールをまとい、涙ながらに心情を訴えたのだとか。彼女の威厳にあふれた姿に魅了されたハンガリー人は、3万の兵と多額の軍資金を約束したそうです。その後困難な闘いを切り抜けて、結果的にシュレジェンは失ったものの他の家督の相続は認められたのです。

そして1745年、夫のフランツ1世は神聖ローマ帝国皇帝に即位しました。きっと最初は若い女に何ができると小馬鹿にしていた男性たちも、彼女の行動力と美貌に引き込まれていったのかもしれません。

(参考資料)
「ハプスブルク家」江村洋著 講談社現代新書



-絵画の背後にある物語