フランス美術の象徴ともいえるエドゥアール・マネの《オランピア》が、一度はフランスを離れ、アメリカに渡りそうになった——そんな事実をご存知ですか?
この危機を救ったのが、意外にも印象派の画家クロード・モネでした。彼は亡き友マネのために奔走し、募金活動を立ち上げ、政府に手紙を書き、美術史を動かす大胆な行動に出ます。
モネといえば、優雅な「睡蓮」のイメージが強いですが、実は「行動する芸術家」でもありました。彼の執念がなければ、《オランピア》は今日フランスに残っていなかったかもしれません。
この物語を知ると、オルセー美術館で《オランピア》を観るときの感動が変わるはずです。
今回は、モネが書いた手紙とともに、この名画を巡るドラマをひも解いていきます。
今回の作品と登場人物

📌 作家名:エドゥアール・マネ(1832-1883)
📌 作品名:オランピア(1863年)
📌 サイズ:130.5×191cm
📌 所蔵:オルセー美術館
「オランピア」とは?
1865年、サロンという官展・絵画を発表する場所で、前例がないくらいに批判されたと言われる《オランピア》。批判の理由は、描き方と題材。
これまでの絵画の理想化された裸婦像とは異なり、娼婦と思われる現実的な女性の姿が描かれたことが、当時の人々に衝撃を与えました。また、遠近法を無視したような平面的な描き方にも、伝統を重んじる画家たちにとっては文句をつけたいところだったようです。
登場人物
画家たち
- エドゥアール・マネ(1832-1883)…《オランピア》の作者
- オスカー=クロード・モネ(1840-1926)…《オランピア》をフランスに留めるために奔走
関係者たち
- ポール・デュラン=リュエル … 画商、印象派を支えた
- シュザンヌ・マネ … マネの妻
- ヴィクトリーヌ・ムーラン … 《オランピア》のモデル
- エドガー・ドガ … 画家、印象派の仲間
- オーギュスト・ルノワール … 画家、モネと共に行動
- ベルト・モリゾ … 画家、マネの弟ウジェーヌと結婚
- アルマン・ファリエール・・・フランスの美術責任者
マネとモネ
マネとモネ。名前がとてもよく似ている上に活躍した時代もほぼ同じ。よく間違えそうにもなりますが、それは当時も同じだったようです(笑)
サロン(官展)では、アルファベット順でモネの作品が必ずマネの隣に展示され、批評家が二人を取り違えて評論を書くこともありました。そのたびにマネは「私はモネではない!」と怒っていたそうです。
しかし、二人の関係は「名前の間違い」以上に複雑だった。
マネは印象派の画家たちに慕われたが、自らは印象派展に出品せず、あくまでサロンでの公式な評価を求めました。当初、モネの活動には距離を置いていたものの、やがて彼の作品を購入したり、資金援助を申し出るなど支援するようになります。
特に印象的なのは、マネがモネ一家を描いた作品を残していること。近くに住んでいた時期、モネの家を訪れ、彼の家族の姿を描いた。最初は対立していた二人が、やがて互いを認め合い、支え合う関係になったことを象徴する一枚とも言えます。
序章|1883年、マネの死

「マネが亡くなった」
1883年5月1日、ジヴェルニーのモネのもとに訃報が届く。エドゥアール・マネ、4月30日51歳で亡くなります。
モネは友人でもある画商のポール・デュラン=リュエルに手紙を書いています。
「私はちょうど悲しい知らせを聞きました。我々の可哀想なマネが亡くなったそうです。彼の弟が私に棺を担ぐ役を頼んでいます。明日の夜までにパリに着いて、喪服を仕立てる必要があります」
「MONET by himself」より翻訳
5月3日、モネは葬儀に駆けつけ、棺を担ぐ。デュレ、アントナン・プルースト、エミール・ゾラなどと見守る中、パリのパッシー墓地に埋葬されます。
共に過ごした日々を思い返しながら、静かに別れを告げる。この時、モネは《オランピア》を巡る戦いに巻き込まれるとは思ってもいなかったはずです。
転機|1884年、オランピアが売られそうになる
1884年、マネの死から1年。彼の作品は次々と市場に出されていた。仲間たちは、亡き友の名声を守るため、画家ベルト・モリゾが中心となりマネの回顧展を開催します。
翌1885年2月。パリのオテル・ドルーオで、マネのアトリエに残されていた159点の作品が競売にかけられることになった。この競売を仕切ったのは、印象派を支援していた画商ポール・デュラン=リュエルです。
「オランピア」高すぎる価格のため競売から取り下げ
多くの作品が売られていく中、《オランピア》は10,000フランという高額な値がつけられていたため、誰も手を出せず競売から取り下げられた。モネとルノワールは、価格を下げるよう交渉したが、それでも手が届かなかった。
「このままでは、マネの代表作がどこかへ流れてしまう」
しかし、このとき彼らがまだ知らなかったのは、フランス国内だけではなく、海の向こうでもマネの作品が注目され始めていたことだった……。
アメリカ流出の危機
1885年、アメリカの美術連合が、ニューヨークでの印象派展開催をデュラン=リュエルに依頼する。モネたち画家は戸惑ったが、デュラン=リュエルはこれを快諾。
そして1886年4月10日——ニューヨークで印象派展が開催され、約300点もの作品が展示されることになった。
- モネ 48点
- ピサロ 42点
- ルノワール 38点
- ドガ 23点
- マネ 17点
- シスレー 15点
- スーラ 3点
- さらに、カイユボット、カサット、モリゾの作品も出品された。
展覧会は大きな成功を収め、その年のうちに第2回が開催。1888年には、ニューヨークに印象派専門の画廊がオープンするほどの盛況ぶりだった。
この時期、アメリカのコレクターたちはフランスで正当に評価されていなかった印象派の作品を次々と購入していった。もし《オランピア》がこの流れに乗っていたら、現在オルセー美術館で見ることはできなかったかもしれない。
フランスではまだ認められていなかった印象派
一方で、フランス国内では依然として印象派は冷遇され、美術館に収蔵されることはほぼなかった。1894年になってようやく、画家ギュスターヴ・カイユボットのコレクションがリュクサンブール美術館に遺贈されたが、それさえも、アカデミー画家たちからの激しい反発を受け、大論争へと発展してしまう……。
行動開始|1889年、モネの募金活動
「みんなの力を借りよう」
マネの死後6年後の1889年7月、モネは国のために《オランピア》を購入しようと募金を始めることを決めました。目標金額は20000フラン。画家仲間や美術愛好家たちに呼びかけ、募金活動を始めます。
モネの動きを印象派の他の仲間はどう見ていたのでしょうか。面白いエピソードも残っています。
スタートした翌月の8月にルノワールはモネに対して募金の参加を断る手紙を書いています。しかしやはり気の毒になり後に50フランを送っているのだとか。(ちょっとびっくりです!!断った理由や撤回したきっかけも知りたいですね)
翌年の3月、ドガはモネへ100フランだすという手紙を出しています。(こちらもずいぶんと遅いですね)
計画遂行のための3つの理由
モネがこの計画を進めるのには3つの理由がありました。
・マネの未亡人シュザンネの援助
・印象派を公的なものとして承認してもらうため
・印象派のリーダーとして
この時代、印象派の絵はまだ「公式な芸術」とは見なされておらず、美術館に作品が入ることは珍しかった。だからこそ、モネはこの募金を単なる寄付ではなく、「印象派を認めさせる戦い」として考えていました。
そして、サロンで認められることを常に考えていたマネを近代美術史の巨匠の一人として認証させようという思い。マネが認められることは印象派の評価にもつながると考えたはずです。
彼らは必死にお金を集め、約7ヶ月後、19415フランを集めることに成功する。
当時の1フランがどれくらいの金額なのか?国立国会図書館のデータベースの記事を見ると、19世紀というざっくりとした範囲ではありますが、1フランは2.813円相当になると書かれています。
19世紀のフランス貨幣「フラン」は現代の日本でいくらか。 | レファレンス協同データベースレファレンス協同データベース(レファ協)は、国立国会図書館が全国の図書館等と協同で構築する調べ物のための検索サービスです。crd.ndl.go.jp
計算でいくと、20,000フランは約5,600万円。
今のマネの価値とは比べものにならない金額ですが、この金額を募金で集めたというモネは頑張ったのだなと思います。
クライマックス|政府への手紙(1889年2月)
ついに、1889年2月7日、モネは買い上げた《オランピア》を国に寄贈するために、美術省長官のアルマン・ファリエール宛に手紙を書きました。募金スタートから約7カ月で目標の20000フランに近い19415フランが集まったからです
さらに、《オランピア》が地方の美術館に流れていってしまうことのないように、「ル・フィガロ」誌に手紙を掲載してもらいます。そしてリュクサンブール美術館に展示するという条件が無視された場合のことも考えて、合意書も返送しています。
モネの念には念を入れた行動にも感心させられます。
この手紙には活動の理由としてモネの熱い想いが込められています。
・・・・・・・<オランピア>のような作品がわが国家コレクションに入っていないのは、我々にとって信じがたいことに思えます。すでに弟子が名をつらねている場所に師の姿がないのですから。これに加えて我々は絶えざる市場の動きを懸念しております。アメリカ人たちは我々から驚くべき数の作品を購入しており、フランスの栄光であり喜びであるような芸術作品が非常にたくさん海のかなたの大陸にわたってしまうことが容易に予想されます。我々は、エドワール・マネの最も特徴的なカンヴァスのーつを引き止めて置きたかったのです。この作品には、戦いの勝利者であり、自己の視野や技の主人としてのマネが現れています。
長官殿、我々があなたの手にお渡ししたいのはかの<オランピア>なのであります。我々の望みは、時がきたらこの作品がフランス画流の作品と並んでルーヴルにこそ居場所を見い出すことです。もし規則がこの作品が直ちにルーヴルへ入ることを阻んだり、クールベと言う先例があるにもかかわらず、まだマネの死後10年が経過していないという異義の声が上がるようなら、<オランピア>を受け取り、しかるべき時が来るまで保管するのにリュクサンブール美術館こそ最適と考える次第です。我々が連帯して純粋に正義の行為を成就したと考えております。この作品を、貴下が承認しようとお考えくださるのであろうことを我々は確信しております。「印象派全史 1863-今日まで」バーナード・デンバー著 池上忠治監訳
エピローグ|オランピア、ついに美術館へ(1907年)
モネが守ったマネの《オランピア》。彼の希望通り、1889年にパリの近代美術館リュクサンブール美術館に収蔵され、17年間展示されることとなった。
リュクサンブール美術館とは、1750年に「王の絵画」展として開館し、フランスで最初に一般公開された美術館。1818年にはヨーロッパ初の「現代美術館」として再設立され、のちに国立近代美術館の原点となる。しかし、この時点ではまだ「ルーヴル美術館に展示される価値がある」とは見なされていなかった。
そして1907年1月6日——《オランピア》はついに、ルーヴル美術館の壁に飾られることとなる。サロンで発表され、激しい非難を浴びたあの日から実に32年後のことだった。
32年という歳月は、長いのか、それとも短いのか?この頃、ルノワールの《シャンパルティエ夫人とその子供たち》が84,000フランでメトロポリタン美術館に購入されるなど、印象派はもはや世界的な芸術として確固たる地位を築いていた。批判され続けた作品たちは、次第に美術史の中心に受け入れられ始めていたのだ。
そして今、《オランピア》は近代作品を収蔵するオルセー美術館に所蔵されている。かつてはスキャンダルだったこの名画が、今ではフランス美術の象徴の一つとして、多くの人に愛されている。
モネが守ったこの一枚には物語がある。それは、時代の変化の中で芸術の価値がどう扱われてきたのかを静かに語りかけてくるのです。
あとがき
モネの手紙を読んで驚いたのは、彼が仲間の遺したものを守り抜こうとする人間だったことです。「絵が売れないから借金をお願いするモネ」という印象が強かった私にとって、このエピソードは、彼のまた別の顔を見せてくれました。
そして、《オランピア》はかつてアメリカに渡るはずだった。しかしモネの情熱と努力によって、今もフランスにあります。
あれから100年以上の時を経て、自らの足でアメリカへ渡ることになりました——2023年、メトロポリタン美術館での「マネとドガ」展のために。
作品は静かにそこにあるようでいて、実は幾度もの試練を乗り越えてきています。美術館に収められるまでの「旅」を知ると、名画の見方がまったく変わるのではないでしょうか?
私が「来歴」に興味を持ったのも、まさにこういう物語に出会ったからでした。
美術館で作品を見るとき、私はつい「この絵はどんな旅をして、どうやってここにあるのだろう?」と考えてしまう。
たとえば、海外の美術館のサイトには、「来歴(Provenance)」という項目があります。そこには、作品がどんなコレクターの手を渡り、戦争やオークションを経て、現在の美術館に収まったかが記されています。
それはただの「所有の記録」ではなくて、戦争、盗難、流出、寄贈、そして守り抜かれた意思——作品が生き抜いてきた歴史そのものなのです。
そんな視点を持って名画を見ると、今までは「ただ飾られている」と思っていた美術館の作品が、まるで長い旅の果てにようやくたどり着いた主人公のように感じられるはずです。
私はこれからも、気になって調べずにはいられなくなった作品の来歴を追い、記事にしていきたいと思っています。
参考
・「印象派全史 1863ー今日まで 巨匠たちの素顔と作品」バーナード・デンバー著 池上忠治監訳
・「印象派はこうして世界を征服した」フィリップ・フック著 中山ゆかり訳
・「MONET by himself」Edited by Richard Kendall