「最後の晩餐」
レオナルド・ダ・ヴィンチ
1495−98年
サンタマリアデレグラツィエ教会付属修道院大食堂
レオナルド・ダ・ヴィンチが描いた「最後の晩餐」。
最後の晩餐は、新約聖書の中に、キリストが拘束される前にエルサレムで12人の弟子たちと共にとった最後の食事として記録されています。
レオナルドは、イエスが弟子の中の一人が自分を裏切ることを予告して、「あなたがたのうちの一人が、わたしを裏切ろうとしている」と言った直後の様子を描いてます。
イエスの言葉に驚いて、ざわつく弟子たちのしぐさや表情から、一人一人の感情の表し方が全く違うのを見ることができますよね。
うまく一人一人を表現しながら、さりげなく3人づつのグループでまとまっていたり、手や視線で静かに座るキリストに視線が集まるようになっている。
調和、バランスをしっかりあるけど、この場の空気がぴりっとしてざわざわしている動きも感じられて、その調整具合が本当に上手い。
ここで、イエスの言葉にうろたえた12人の弟子たちは、イエスが捕まったとき恐怖のあまりイエスを見捨てて逃げ去っていったそうだ。
人間らしいなぁと感じるとともに、そんな人たちが聖書を構成している文書を書き記したり、布教活動に命をかけて望んでいったのか。
三浦綾子さんの著書「新約聖書入門」には、イエスが亡くなって、復活をしたことをによって歴史が変わったと書かれてます。
が、これですべてが終わったのではなかった。ここから人類の新しい歴史が始まったのである。
もしイエスがいかに偉大な人物であっても、十字架上に人類の罪を追わなかったとすれば、世界の歴史を変えるような存在にはならなかったであろう。
また、イエスの死が単なる死であり、その死ですべてが終わりであれば、今日までの二千年、キリスト教はつづくことはなかったであろう。
キリスト教の中心はこの十字架の死と、そして、生前イエス自らが予言されていたように、三日目に甦ったという、復活の事実なのである。「新約聖書入門」三浦綾子著
新約聖書の中には、4人の人物が書いた福音書や、使徒行伝などによってできてます。
それらは、弟子たちがイエスとともに過ごしながら書かれたものではなくて、イエスの死後世界中にちらばって布教活動をしながら書かれた。
その布教活動もはげしい迫害の中での活動で、島流しにあったり、獄中の中で書かれているんですよね。
イエスのためにとか、熱い信仰心持ってというよりは、普通の人と対して変わらなかった使徒たちが、イエスの死後目まぐるしい働きをしていく。
イエスの言われていたことや彼の行動の真実を目の当たりにして、自分の心に火が付いたということなのでしょうか。
このことを知ることで宗教画を見る見方がまた1つ広がったように感じます。
そして、こんな本気のスイッチが入るのは、失敗した苦い経験とか、辛い出来事だったり、自分がマイナスだと捉えているようなことがきっかけであることが多いのかもしれない。