知識を深める美術史 ルネサンス1『初期ルネサンス1』

ルネサンス・・・よく耳にする言葉だと思いますが、再生とか復活を意味する言葉です。イタリアから始まったルネサンスとは古代ギリシア・ローマ文化の再生を意味しています。15世紀から16世紀のこの時期は大きな変化の時代でした。芸術の分野でも同じです。大きく花開いた芸術スタイルは、その後の時代のお手本となっていきます。

ルネサンスで古代文化の再生が広がったことを美術史の良書「美術の物語」の著書 E.H.ゴンブリッチはこのように説明しています。

はるかな昔、イタリアがローマを都とし、文明世界の中心だったという事実を、イタリア人はけっして忘れたことはなかった。ゴート族やヴァンダル族などのゲルマン民族が侵入してきたために、ローマ帝国は分裂し、それ以来イタリアの力と栄光は失われてしまった。そう彼らは考えていたのだ。だから、復活という言葉は彼らの心のなかでは「偉大なりしローマ」の再生と堅く結びついていた。彼らはギリシヤ、ローマの古典時代を誇りをもって振り返り、それが再生する新時代を待ち望んだ。「美術の物語」E.H.ゴンブリッチ

ルネサンス文化として芸術の世界も発展したことで多くの素晴らしい芸術家が質の高い作品をどんどん生み出していきました。

ルネサンスはとにかく盛りだくさんで、芸術家も多いということで5つのパートに分けています。今回はその1回目。初期ルネサンスです。

  • 初期ルネサンス1・2
  • 北方ルネサンス
  • 盛期ルネサンス
  • ヴェネチアンルネサンス

始まりはフィレンツェ

ルネサンスは商工業で繁栄したイタリア中部の都市国家フィレンツェで始まりました。市は共和国でしたが実質的には1434年以降メディチ家が支配していました。

深い教養を身に付けるようになった人々は、ギリシヤやローマの古代文化を再発見していきます。そして新しい建築を古代風のデザインで建てることが求められるようになっていきます。でも古代の神殿や浴場中心の建物とは違い、教会や邸宅などの建物。ただ真似ることではなく、古代スタイルのうまく生かすために、遺跡をスケッチしたり、古代ローマの建築家ウィトルウィウスの「建築十書」などから学びました。そういった研究や観察をすることで芸術に新たな技術が開発され、その技術を書物で残すということも行われていました。

そんなフィレンツェのルネサンスを象徴する大聖堂。フィレンツェに行ったことある人なら必ず見ているであろう、フィレンツェの写真と言えば出てくるであろうそんな建物。ここで建築家ブルネレスキは古代の再生という大きな理念を実現しました。美術史の中でもとても重要な建物です。

このフィレンツェ大聖堂(サンタ=マリア=デル=フィオーレ大聖堂)は13世紀末から建築が始まっていたのですが、15世紀になってもまだ完成していませんでした。原因はフィレンツェの人々が望んだ大聖堂にドーム(丸天井)をかけるという大きなプロジェクトを実現する方法が出なかったため。地上55メートルの場所から直径45メートルというドームは90メートルの高さにまでなる巨大なもの。当時の技術では到底無理なことでした。ブルネレスキはローマのパンテオンやその他のドームを調査し尽くしました。ブルネレスキのやり方には妨害や無理解もありましたが、二重殻構造という方法で1434年に15年の歳月をかけ八角系の胴部の上に支柱無しで、地道にレンガを積んでいき完成しました。とても気の遠くなるような話ですが、彼の数学的技術にローマ建築の知識が合わさって実現した偉業です。

遠近法の発見

遠近法の法則が発見されたことで、より立体的に現実世界を表現することができるようになりました。美術を論理的な基盤の上の考え、幾何学的に計算された奥行きや比率が見られるようになったのです。

フィリッポ・ブルネレスキ (Filippo Brunelleschi, 1377-1446)

ブルネレスキはフィレンツェのサン・ロレンツォ教会で、遠近法を建築の世界で表現します。彼の発見した一点透視遠近法とは風景などで見ることができるように、水平線に向かって徐々に道幅が狭くなり、最後にその地平線上に消えていく現象を科学的な方法で解明したもの。水平線の上に消失点というポイントを作りそこに向かって線を描いていくことで距離感や立体感を作っていくことができます。もちろんそれまでも奥行きを表現したり、物や人物を短縮して描くことで空間を表現することはできていました。でも数学的な法則によって遠くにいくにつれて小さくなって見えることは知られていませんでした。

教会の内部では全ての線が主祭壇に集まっているように見えます。奥に向かって並ぶ円柱も規則正しく縮小されているようです。

この発見は建築だけではなく、絵画史上でも画期的な発見でした。これ以降この遠近法が絵画の基本になったからです。

ブルネレスキ 1420年代、サン・ロレンツォ教会、フィレンツェ

レオン・バッティスタ・アルベルティ(Leon Battista Alberti、1404-1472)

アルベルティは古典にも通じた学者であり、画家、建築家、彫刻家、ローマ教皇の秘書官の1人でもあった多彩な人物で、多くの著書を残しています。ブルネレスキの友人であったアルベルティが、1436年にルネサンスの画家たちのために編集した「絵画論」という手引書。この中にブルネレスキが発明した遠近法が説明されています。絵画論以外にも、建築論など深い理論はその後にとても影響を与えました。

マザッチオ(Masaccio, 1401-1428)

画家のマザッチョはブルネレスキの一点透視遠近法を絵画に取り入れ、平面に奥行きという錯覚を作り出しました。それがこの絵。今私たちには特に物珍しい物ではありませんが、当時この絵をみた人々はまるで絵の中に穴が空いたように見えるこの絵に驚いたことでしょう。平面の絵の中に小さな礼拝堂があり、まるでその中に入って行けるように見えるのですから。

これが始まり。だからまだ表現が硬い感じがしますが、ここから多くの画家が試行錯誤を重ねて遠近法を駆使していくことになります。

マザッチオ 「聖三位一体と聖母と聖ヨハネと寄進者たち」1425-27年頃、サンタ・マリア・ノヴェッラ教会、フィレンツェ

絵の主題を強く訴える

ドナテッロ(Donatello、1386頃-1466)

彫刻家のドナテッロはマザッチオが絵画で行ったことを彫刻で挑戦しました。こちらもブルネレスキの友人のドナテッロ。イタリア、シエナの大聖堂の洗礼盤の周囲を飾るブロンズでできた6枚のパネル。その一枚がこの「サロメの舞」。洗礼者聖ヨハネの生涯

ヘロデ王に命じられ王女サロメは踊りも見せることになった。そのほうびとして聖ヨハネの首が欲しいと言い出した。このパネルの前面は宴の中でサロメの舞が終わり、左端にいるヘロデ王に盆に乗ったヨハネの首が差し出されているシーン。ぞっとする話です。ヘロデ王の驚きや同席している人の恐怖感や部屋の中の緊迫した雰囲気が伝わってきますよね。

ドナテッロはこの場面を表現するのに新しい遠近法を使い、前景の広間、中景の演奏をしている人物の部屋、一番後ろのサロメの首がはねられている場所を表現しています。その空間表現は見事としか言いようがありません。このパネルの奥に複数の空間があるにも関わらず、その中で人物が自然に動き回れる空間があるように工夫されています。

そして物語をこの空間を移動するように見ていく。まるで私たちもヘロデ王の宮殿にいてそこを通り抜けているかのようです。その中で物語の流れ、緊迫感などが見ている人に自然に伝わるようになっているのです。

ドナテッロ「サロメ」1425年、シエナ大聖堂、洗礼盤

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