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ピーテル・パウル・ルーベンス 「マリー・ド・メディシスのマルセイユ上陸」

「マリード・メディシスのマルセイユ上陸」連作マリード・メディシスの生涯から
The Disembarkation at Marseilles
ピーテル・パウル・ルーベンス(1577年ー1640年)
Peter Paul Rubens
1622年ー25年
ルーブル美術館所蔵

描かれているのはマルセイユに到着したマリー・ド・メディシス

たくさんの登場人物が描かれているこちらの絵、主人公はどの人物だかわかりますか?

 

船から降りて陸へと渡ろうとしている真ん中の白いドレスの女性。
右の青いマントを着た人物から手を広げ迎えられている、堂々とした人物が主人公のイタリアメディチ家のマリー・ド・メディシス(1573年〜1642年)です。

 

イタリアではマリア・デ・メディチ。フランスではマリー・ド・メディシスと呼ばれています。

 

1600年の10月5日、マリー・ド・メディシスは、故郷であるフィレンツェでフランス国王アンリ4世との代理結婚式をあげました。
多忙でフランスを離れられなかったアンリ4世の代理人と、マリーが結婚式を挙げることになったのです。
アンリ4世の代理人役はトスカーナの大公が務め、フランスのブルボン王家とイタリアのメディチ家がここで結びつきました。

 

1599年からフランスの使節団がフィレンツェ宮廷にやってきて、婚姻の準備を整えていたというそうですから準備から気合の入れようが違います。
マリーの持参金は金銀財宝の他、フランスがフィレンツェ共和国に負っていた負債の金額を帳消しにする分も含まれていたそうです。
まさに政略結婚ですね。

 

フィレンツェ大聖堂で行われた挙式と1週間に及ぶ祝祭のあと、マリーは金の織物や宝石で飾られた豪華なガリー船で11月3日にマルセイユに到着。
この絵はその到着の様子を描いたものなのです。

 

さらにその後リヨンでついにアンリ4世に会い、2人の結婚の儀式は完了しました。

 

神話や寓話を交え壮大な歴史画に描いたルーベンス

マリーは、パリのリュクサンブール宮殿に飾るためにピーテル・パウル・ルーベンスに自分の連作絵画を依頼しました。
24枚からなる「マリー・ド・メディシスの生涯」には、21枚が彼女の重要な出来事と、3枚はマリーと両親の肖像画が描かれました。

 

この絵はその21枚の中の1枚で、マルセイユ到着の様子を、神話の世界や寓意なども交えて、まるで歴史画を見るような壮大さを演出しています。

 

ルーベンスはどのように演出したのでしょうか?

 

マリーは、両脇に叔母でトスカーナ大公妃クリスティーナと、姉のマントヴァ公妃エレオノーラを従えタラップを降りています。
彼女たちを両手を広げて迎え入れているのは、兜と黄金のフルール・ド・リス(アヤメの花の紋章でフランス王家とゆかりがある)が刺繍してあるマントを羽織った「フランス」を擬人化した人物。
その上には「名声」の擬人像がトランペットを鳴り響かせています。
船から岸に渡るタラップの下には、フィレンツェからマルセイユまでの長い船旅を見守ってきた、海の神やニンフたちもこの歓迎に加わっています。

 

実際にマルセイユに着いた時にはタラップが上向きになっていて、マリーはタラップを上がっていったそうです。
でもそこを彼女が船から降りていく様子で描くことで、彼女の地位の高さ、威厳さを加えています。

 

ルーベンスから自分の価値を高めることを学ぶ

マリー・ド・メディシスの生涯を描いたピーテル・パウル・ルーベンスは、「王の画家」「画家の王」と言われるほど当時もそしてその後の画家にも大きな影響をおよぼした人。
そして、画家として多くの注文をさばくため大工房を運営し、宮廷画家としても外交官のような重要な任務をこなす人物でした。
活躍の範囲はヨーロッパのさまざまな国。
イギリスのチャールズ1世からは称号まで与えられています。

 

ルーベンスの父はアントワープでは有力な法律家でした。
しかし当時のフランドルはカトリックが国教のスペインハプスブルク家の支配下で、プロテスタントが厳しく迫害されていました。
父は1568年に告発されて家族はドイツのケルンに亡命。ルーベンスはその後1575年にドイツで生まれています。
その後父はオランダオラニエ公ウィレム一世の妻アンナの秘書けん法律顧問となるものの、2人の不倫が発覚。
父は死罪は免れましたが自宅軟禁となりました。
軟禁はとかれ父の死後はアントワープに戻りカトリックに改宗。
家庭を支えるために13歳で伯爵の小姓となったあと、14歳からは画家の修行を始めます。

 

マリー・ド・メディシスの代理結婚式に、当時イタリア留学中のルーベンスはマントヴァ公に付き添い参列しています。
当時はまだマリーと対等に出会えるような身分ではありませんでしたが、その後直接マリーから重要な絵画を依頼されるまでになる。

 

当時のイタリアは芸術の最高峰の国でした。
古代ギリシアやローマの芸術、ルネサンス芸術、最先端の芸術が発信される場所。
そこで8年間徹底して吸収したスケッチを終生大事にして制作に役立て、手紙を描く時はほぼいつもイタリア語を使っていたそうです。

 

擬人像や神話の人物を絵に入れる。ルーベンスの描きこんだ意味を知識のあるお客様は見つけて意味を考え楽しむことができるのですね。
またこのマリー・ド・メディシスの絵画のように自分が歴史の中の重要な人物のように描かれていたらそれは満足することができるでしょう。
自分の知識を最大限に活かしたルーベンスの絵画は、当時のお客様である王族や貴族の人たちの知的好奇心を刺激するようなものだったのです。

 

▼ルーベンスにとって貴重だった8年間のイタリアでの日々に焦点をあてた2018年の展覧会「ルーベンス展ーバロックの誕生」の展覧会レポートはこちらから読めます。
ルーベンス展ーバロックの誕生 国立西洋美術館で開催中

 

 

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