「西洋美術の歴史を旅しよう!西洋美術史入門講座」 7日目 印象派・後期印象派

ロマン主義、写実主義、バルビゾン派はいかがだったでしょうか?
このように歴史をたどっていくと、美術の様式はその時代の情勢との関わりの他にも、過去の芸術スタイルの反発から新しいスタイルが生まれてきていることわかるのではないでしょうか?


印象派もまさに過去や伝統への反発。
自分たちが描きたいものを描きたいように描く!
画家達のそんな情熱が、常識だと思われていた芸術はこうあるべきという姿をひっくり返したのです。
登場当時は嘲笑われていた彼らの生み出した作品、芸術に対する想い、主題の選び方、技法や制作スタイルなどが、その後の芸術家に刺激を与え、現代のアートへとつながっていくのです。


7日目の主役は、日本でも大変人気のある印象派の画家たちです。

この時代の美術市場について知っておきましょう


どんなところに多くの人が惹きつけられているのでしょうか?
今までみてきた宗教画や歴史画とは違い、一目で何が描かれているのかわかるところ。
それに自宅に飾ってみたくなるような、明るくて鮮やかな色彩の絵画が多いのも理由でしょうか。


今や多くの人に愛される印象派が、どのように美術界の伝統を打ち破る革命をおこしたのか見ていきましょう。

理解するには、美術市場について少し知っておくことが大切です。

当時、美術界の頂点に立っていたのはアカデミーという国の美術機関でした。
国の芸術政策のもとで、芸術家の育成・表彰・展示を取り仕切っていました。

画家として認められるためには「サロン」と呼ばれる年に一度の官展に入選する必要がありました。
そのサロンの審査員は、主に美術学校の教授やアカデミー会員たちです。
審査に合格するとサロンに展示してもらえ、多くの人に見てもらえるわけです。


ではアカデミーのお気に入りの作品はどのようなものだったのでしょうか?
1863年のサロンで入選した、ルネサンス以降の伝統に乗っ取った”完璧なヌード”です
例えば、筆の跡すら感じさせない滑らかな肌の質感。女性から見たら憧れるような美しい肌です・・・
そしてギリシア神話の女神を描いたという口実があれば、ヌード像も高尚な芸術作品として認められるのです。

▼「ヴィーナスの誕生」
アレクサンドル・カバネル 
1863年

Alexandre Cabanel: The Birth of Venus, Public Domain, via Wikimedia Commons


次は、同じ年にサロンで落選したマネの作品。
パリの美術愛好家を憤慨させ、マネを一躍有名にした絵です。
批判を受けたのは、テーマや技法。
近代的な服をきている男性と裸の女性。売春婦と顧客という関係を想像させてしまう登場人物。
くっきりとした輪郭線や手早い塗り方で深みを与える工夫をしていないこと。
ルネサンス以降の伝統的な遠近法を使っていないことなど、さまざまな点で酷評されました。

しかし、伝統的な技法を捨てて、革新的な作品を発表しづつけるマネは、印象派の画家たちに慕われて、彼らに強い影響を与えます。


▼「草上の昼食」
マネ 
1863年

Édouard Manet: Luncheon on the Grass, Public Domain, via Wikimedia Commons


アカデミーは新古典主義の美学を引き続き持っていて、絵画の注文者である王侯貴族、教会、知識人などの特権階級の人々の好みにあうものに合わせる傾向があるため保守的でした。

絵画の主題(ジャンル)にも階級があり厳しく決められていました。
▼その階級についてはこちらもごらんください。


印象派の画家たちは、文学や歴史、神話などから離れ、純粋に絵を楽しんでもらうことを望んでいました。
自分たちが見て美しいと思う光と自然、日常風景、普通の人々の姿をそのまま描き出したいと考えていました。


しかし、アカデミーは若い画家たちの新しい傾向の作品は受け入れず、1869年のサロンでは、モネ、ルノワール、シスレー、セザンヌなどことごとく落選させられました。
そうして次第に若い画家たちの間に不満が高まっていくのです。


モネたちはどうしたのでしょうか?


【印象主義:1874〜1886年 主にフランス】

印象派の始まり

始まりは1874年のフランス、パリ。
マネを慕っていた若い画家たちはサロンに対抗して、自分たちの展覧会「第一回無名画家芸術家協会展」を開きました。
モネ、ドガ、ピサロ、シスレー、ルノワールたちです。


モネが出品した「印象ー日の出」という作品。
故郷、ル・アーヴルの港の朝の景色を描いています。
船や遠くに見える工場の煙突なども靄の中に溶け込んで、鮮やかな太陽の光は波でゆらゆらとする水面に反射している。
日の出の光景はあっという間に景色が変わってしまいますよね。そこをモネはとらえたのです。

▼「印象ー日の出」
クロード・モネ 
1872年

Claude Monet: Impression, Sunrise, Public Domain, via Wikimedia Commons


しかし、伝統を重んじる人たちにとっては、「こんなのは絵ではない」、「描きかけだ」、「何を描いたのか?」など評価は散々なものでした。
今の私たちにとっては普通でも、当時の人がこの絵をみた衝撃はとても大きいものでした。


批評家はモネの作品に付けられたタイトル「印象ー日の出」を馬鹿げたものだと考えて、グループ展の画家たちをまとめて「印象派」と名付けました。


印象派の特徴

・ルネサンスからの伝統 遠近法や陰影法で立体的にリアルに表現することをやめた
(これは写真の発明によって実物そっくりに描く意義が薄れたことや、パリ万博からの日本ブームでもたらされた浮世絵の影響)
・その時代の流行のものを描く(風景や風俗)
・光の移ろいの瞬時の瞬間を捉える
・明るい色彩と自由なタッチの表現


アカデミーや評論家が罵倒した作品も、人々に徐々に受け入れられるようになります。
もともと悪口で使われていた印象派という言葉も、3回目の展覧会から自分たちで名乗るようになったのです。
1886年まで全8回行われた展覧会も後半では絵も高値で売れるようになりました。


▼「ムーラン・ド・ラ・ギャレットの舞踏会」
ピエール=オーギュスト・ルノワール 
1876年

ルノワールは、フランスのモンマルトルに存在した「ギャレットの風車」の名前を持つダンスホール、ムーラン・ド・ラ・ギャレットの近くにアトリエを構えていました。
毎週日曜日に開かれるダンスパーティーに通い、パリの生活の象徴とも言えるダンス風景をルノワールは描きました。
人物をしっかりと輪郭をとるのではなく、色の集まりとして描きます。
肌に光と影が落ちる様子を描いているのですが、「腐りかけの肉」と批判されました。

Pierre-Auguste Renoir: Bal du moulin de la Galette, Public Domain, via Wikimedia Commons


点描画法

印象派の画家たちの生み出した色彩分割というのは、画面を一様に塗るのではなく、光を捉えるために筆のストロークを短くして色を塗り重ねるというものでした。


そこからさらに色彩学を取り入れ、点描画へと発展していきます。
スーラはその点描画の代表的な画家。
細かく分類すると新印象派とも呼ばれます。


▼「サーカス」
ジョルジュ・スーラ 
1890年

スーラの点描画法は、原色の小さな点をカンヴァスに直接打つように描くことで、色のコントラストが際立ち、見ている私たちの目の中でその色が溶け合うことを狙った技法です。
その描き方はとても斬新ですが、構図は念入りに考えられています。
客席の水平線は穏やかさを出して、でも垂直や斜めの線によって躍動感や危険、大胆さを演出しているのです。

Georges Seurat: Le Cirque, Public Domain, via Wikimedia Commons


【後期印象主義:1880年後半〜1990年代 主にフランス】

印象派の画家たちは1886年の第8回の展覧会で終了します。
後期印象主義の画家として代表的なのは、ゴッホ、ゴーギャン、セザンヌの3人。

彼らは印象派展に出品したり、印象派と関わったりするのですが、徐々に自分路線の描き方、テーマ選定へと移っていきます。

とても後期印象派とひとくくりにまとめられない個性のある画家ばかり。どの時代の様式も同じですが、美術史上わかりやすくするために後から分類されているわけで、この画家がこのグループに?となる場合もあるわけです。

3人の絵画も、のちに続く芸術家に大きなインスピレーションを与え続けていくことになります。

ゴッホの自らの内面を激しく表現するスタイルは表現主義に。
ゴーギャンの平面分割と強烈な色彩はフォーヴィスムに。
セザンヌの自然を幾何学的な立体に分割して再構成するスタイルはキュビスムに影響を与えることになります。
このように19世紀の美術と、20世紀美術との橋渡しの役割も果たしました。

▼「ローヌ川の星月夜 」
フィンセント・ファン・ゴッホ 
1888年

ゴッホがアルル滞在時に、夜のローヌ川の堤防の一角の風景を描いたものです。
1888年2月に南仏アルルに移ってからゴッホは夜景に関心を持つようになりました。
力強く打つような筆つかいと、なんども重ねられた絵の具が強烈です。
強い色彩、激しいタッチにはゴッホ自身の不安で激しい内面が表現されています。

Vincent van Gogh: Starry Night Over the Rhone, Public Domain, via Wikimedia Commons


▼「我々は何処から来たのか、我々は何者か、我々はどこへ行くのか?」
ポール・ゴーギャン 
1897-1898年

見たものを感じた経験を絵画にするという印象派の考え方に違うと感じ、ゴーギャンも印象派を離れます。
ゴーギャンは輪郭をはっきりと描く、そして鮮やかな色を使う、単純化したかたちを描くという方向性に向かいます。それは「自然から抽象を取り出す」という考え方からきています。
パリを離れ、南太平洋のタヒチに移り住み、現地の信仰に影響されてこのような世界観を描きました。

Paul Gauguin: Where Do We Come From? What Are We? Where Are We Going, Public Domain, via Wikimedia Commons



▼「果物籠のある静物」
ポール・セザンヌ 
1888−1890年

セザンヌは印象派展にも参加しましたが、自然の見方が違うと考えていました。
それは、自然を一瞬一瞬の変化として捉えた印象派とは違い、不変的なもので物や空間の本質を捉えようとしたところです。
しかし伝統的な遠近法や立体的表現を使うのではなく、微妙に変化する色彩と、形態を曲げてかたむかせることで奥行きや立体感を出すことに力を入れました。
同じモティーフを何度も繰り返し描き、自分の独特の表現方法を完成させましたのもそのためです。
彼の表現方法は、ピカソやブラックのキュビズムの画家たちへ大きな影響を与えます。


Paul Cézanne: Still life with fruit basket, Public Domain, via Wikimedia Commons

印象派の世界はいかがだったでしょうか?

次回から2回、様々な芸術主義が乱立する時代へと突入します。






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